模型制作  島  英 雄

 

協  賛  九州ダンボール株式会社

      島原鉄道株式会社

協  力  鉄道博物館

         (公益財団法人東日本旅客鉄道文化財団)

展示運営プロデュース    Imagination Creative inc.

      

1.一号機関車の歴史的背景

英国ヴァルカンハンドリー社の銘板。1871年(明治4年)製造。(鉄道博物館所蔵)
英国ヴァルカンハンドリー社の銘板。1871年(明治4年)製造。(鉄道博物館所蔵)

1号機関車の由来

 

 いまから150年ほど前産業基盤を整えるために鉄道事業の早期導入を決議した明治新政府は、英国から10台(5社合計)の蒸気機関車を輸入しました。そのうちの1台が、バルカン・ファウンドリー社製のB型タンク機関車で、1871年(明治4年)最も早く日本に到着した(英国出国時の検査に一番早く合格し、船積みされたときの付番が「1号」だった)ことから「一号機関車」と呼ばれるようになりました。翌年の1872年(明治5年)、新橋ー横浜間の開業運転の主役を勤め、その後、1880年(明治13年)に神戸へ転属、この地で大幅な改造が行われたのち武豊線、横須賀線、大阪駅構内へと転属を繰り返し、1911年(明治44年)、長崎県の島原鉄道に譲渡されました。

 

 1909年(明治42年)鉄道院の車両称号規程により「150形」 に改定されましたが、島原鉄道では、周知の呼称「1号」を正規の車体番号として付し、東京の鉄道博物館に返還されるまでの約20年間、島原半島の輸送機能を担い続けました。

 

 

開業7年後に編纂された「島原鉄道史」
開業7年後に編纂された「島原鉄道史」
政友会所属の原敬(鉄道院総裁を歴任)の序文
政友会所属の原敬(鉄道院総裁を歴任)の序文

資料提供/上野弘介氏
資料提供/上野弘介氏
鉄道院から払い下げを受けた直後の島鉄の車両記録。鉄道院時代の形式・番号は「A1ー150」であった。島鉄に譲渡されて「A1ー1」に変更。通称「1号機関車」と呼ばれ、あとの4両も2号機から5号機の番号が付されている。
鉄道院から払い下げを受けた直後の島鉄の車両記録。鉄道院時代の形式・番号は「A1ー150」であった。島鉄に譲渡されて「A1ー1」に変更。通称「1号機関車」と呼ばれ、あとの4両も2号機から5号機の番号が付されている。
資料提供/上野弘介氏
資料提供/上野弘介氏

 1930年(昭和5年)、創業者で当時代表者の植木元太郎は、島原を離れる1号機関車の別れを惜しみ、『惜別感無量』と記した直筆の銘板を機体(公式側水槽)に取り付け、島原駅で壮大な送別会を催して東京に送り出しました。

  島原から関門海峡を渡り、かつての転属の地、神戸、大阪、名古屋を経て東京品川駅に到着した一号機関車の蒸気溜には『送国宝一号機関車』と墨書きされた大きな旗がくくられていました。朝日新聞社東京本社アーカイブスに保管されている記録写真(

非公開資料)には、旗のたなびく様子が斜め上から撮影されています。隣の引込み線に停車している客車の屋根から撮影したものと思われます。旗の文字は、植木元太郎の自筆ではないかと推測されますが、定かではありません。『惜別感無量』の銘板は、大宮の鉄道博物館に展示してある機体にそのまま掲げられ、島原での愛機精神は、永久に引き継がれることになりました。

 「1号機関車」は、島原半島に暮らす人びとの一隅を照らす存在だったのではないでしょうか。

 1958年(昭和33年)、鉄道記念物(鉄道関連最初の記念物)に指定され、1997年(平成9年)4月18日、正規の車両称号「150形」としてではなく「一号機関車」の通称名で国の重要文化財(歴史資料)の指定を受け、名実ともに国の宝となりました。

1930年(昭和5年)島原駅の送別式典(島原鉄道株式会社所蔵)
1930年(昭和5年)島原駅の送別式典(島原鉄道株式会社所蔵)

錦絵に描かれた1号機関車

三代歌川広重「東京八ッ山下海岸蒸気車之図」(1871年 明治4年。 島英雄所蔵) 
三代歌川広重「東京八ッ山下海岸蒸気車之図」(1871年 明治4年。 島英雄所蔵) 

 上の錦絵は、開業運転の一年前に、絵師三代広重が想像して描いたものとされています。同じ広重の「東京高輪海岸蒸気車の図」(1871年 明治4年10月。東京江戸博物館所蔵)と同じ構図で描かれています。沿岸を埋め立てて築いた堤は、当時すでに出来上がっていたので、機関車や客車よりも正確に描かれています。

 

 いかに画力があったとしても、機関車を想像で描くことは難しかったでしょうから、外国人の描いたスケッチや写真などを参考にしたのかもしれません。当時、高輪や八ッ山下付近から横浜までの海岸線一帯は、外国船監視のために兵部省の用地に充てられていて、敷地内を通過することを拒みました。鉄道建設を担当した工部省はしぶしぶ海岸から離れた浅瀬を築堤して路線を確保したことが記録に残っています。路線は1889年(明治2年)に着工し、明治4年には完了していたので、この絵に描かれた築堤は、完成以前に描かれたものだと推察できますが、絵をよく見ると、築堤の上に敷かれているはずの線路が描かれていません。もう一枚の「東京高輪海岸蒸気車之図」に線路らしきものが描かれているので、上の「八ッ山下」を描いたときはもう少し古い時期だったかもしれません。

 

機関車部分の拡大図。線路の描写がなく、側面には唐窓風の開口部が描かれている。
機関車部分の拡大図。線路の描写がなく、側面には唐窓風の開口部が描かれている。

 船の甲板にある煙管頭形通風筒とよばれる、空気を機関室に取り入れるための円筒が先頭部分に搭載されているところをみると、たぶん蒸気船をモデルにしたものではないかと思われます。また、線路が描かれていないことから、大型の馬車をミックスしてイメージしたのかもしれません。

黒船に乗ってきた蒸気機関車

 三代広重が描いた明治4年から遡ること17年前、米国ペリー総督が二度目の来日を果たし、幕府と日米和親条約を締結したとき、米国型蒸気機関車(4分の1の模型)を幕府に贈呈し、走行実験を横浜で行ったことが記録に残されています。下の図はそのときの様子を描いたもので、広重の錦絵とは比較にならない精度の高さに驚くばかりです。

 

 描いたのは、横浜で外敵からの守備の任に当たった松代藩士樋畑翁輔。1922年(大正10年)鉄道省は、鉄道開通50年を記念して『日本鉄道史』を編纂。樋畑翁輔の子息樋畑正太郎が本史のために撮影した写真を「嘉永年間渡来蒸気車」として掲載し、その経緯を本史「上編」冒頭部に記しています。

 

 

左 「日本鉄道史」(大正10年刊行)の表紙。     右 第1節「陸蒸気の渡来」嘉永年間渡来蒸気車冒頭部    寸法など詳細にわたって記録している。
左 「日本鉄道史」(大正10年刊行)の表紙。     右 第1節「陸蒸気の渡来」嘉永年間渡来蒸気車冒頭部    寸法など詳細にわたって記録している。

大正10年刊行の「日本鉄道史」に掲載されている蒸気車の図 (米国B形テンダー機関車)
大正10年刊行の「日本鉄道史」に掲載されている蒸気車の図 (米国B形テンダー機関車)

鉄道史年表(黎明期)

1853年(嘉永6年)米国ペリー来日 

1854年(嘉永7年)米国ペリー再来日 日米和親条約締結 横浜の蒸気車走行試験(上図参照)

1868年(明治1年)新政府発足

1869年(明治2年)新橋ー横浜間の鉄道敷設工事開始

1870年(明治3年)工部省を皇居内に設置  技師長にエドモンド・モレル(英国人)任命

1871年(明治4年)工部省に鉄道寮を設置 1号機関車日本に到着(10台輸入のうちの一台) 

1872年(明治5年)新橋ー横浜間 営業運転開始(旧暦9月12日、新暦10月14日)

1908年(明治41年)鉄道院発足

1911年(明治44年)1号機関車(150形)島原鉄道に譲渡

1921年(大正9年)鉄道省設置 東京・名古屋・神戸・門司・仙台・札幌の6鉄道局を置く

1922年(大正10年)鉄道省「日本鉄道史」を刊行 

          鉄道50年祝典(東京駅)   

          鉄道博物館開館

1930年(昭和5年)1号機関車(150形)島原鉄道から鉄道省に返還

米国の怨念

 1922年(大正10年)鉄道開通50周年を記念して鉄道省が編纂した「日本鉄道史」は、 鉄道創業時代の出来事を記録した「史料」です。

 

[第1章 明治以前の事蹟、第1節 蒸気車の渡来]には、ペリー来日の際、幕府に贈呈した蒸気機関車の走行試験を見た幕臣たちの驚きが克明に記されています。(上図「嘉永年間渡来蒸気車」参照)

 

 [第2節 江戸横浜間鉄道免許]には、幕府が米国に発行した敷設契約免許を明治新政府は一方的に覆し、ファイナンスを含む技術支援能力を評価して英国に敷設免許を交付。維新の顛末が記されています。

 1869年(明治2年)英国の指導で始まった鉄道建設は、地主や商工業者など多くの反対意見があったものの、明治5年10月14日の開業運転にこぎつけました。資金・技術・運営のすべてを英国に任せるいっぽうで、米国との契約を破棄し、違約金の要求をも却下した日本政府は、その後、思わぬ米国の怨念に打ちのめされることになるのです。

 

 1945年(昭和20年)8月、連合国軍に敗れた日本は、9月2日、米国戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印しました。そのとき、甲板上では、ペリー総督が日本に初上陸したときに掲げていた当時の星条旗(星の数が31個)を飾って祝い、90年越しの日本征服に米国が歓喜したというニュースは、日本ではあまり知られていないようです。

 1947年(昭和22年)、鉄道省(2年後の1949年に日本国有鉄道に改組)は、輸送力増強を目指し、大型で高速の蒸気機関車の新造許可を駐留軍(GHQ)に何度か願い出るのですが、ことごとく却下されてしまいます。戦勝国と敗戦国の立場の違いというよりも、あの90年前の屈辱を晴らすための忘れえぬ怨念が蘇ったとしか思えない、そんな仕打ちに日本は戦後づっと耐え続けていくことになるのです。

 

 米国が1867年(慶応3年)に交わした鉄道敷設契約を、1869年(明治2年)新政府が却下したことで、戦中・戦後にわたる日米の位置関係が決定付けられたのではないかと推定するのは、軽率のそしりを免れませんがーーーー。

 逆に、米国が新橋ー横浜間に鉄道を建設していたとしたら、いまの日本はどうなっていたのでしょうか。軌間はいまの狭軌(1067mm)ではなく、標準軌(1435mm)になっていたかもしれません。大型高速の機関車を導入していたかもしれません。そうなると、新幹線は日本で生まれていなかったかもしれません。

 また、戦前の、米国による石油の禁輸措置も受けずにすんだかもしれませんし、戦争を引き起こすこともなかったかもしれません。どうなっていたか、それは分かりませんが、1号機関車の導入にまつわる歴史的事実を、私たちは忘れてはならないと思います。

それでも 1号機関車を作る

 明治新政府から新橋横浜間の鉄道敷設契約を反故にされた米国公使館員ポートマンは、1869年(明治2年)10月に来日した米国弁理公使デ・ロングに交渉任務を引き継いた。しかし、新政府側が英国主導の方針を強化したため、1870年(明治7年)8月、米国は交渉の継続を断念。そのいっぽうで、米国は、北海道の官営幌内鉄道の敷設に関する契約を取り付け、1880年(明治13年)着工、1883年(明治16年)に開通させた。営業開始に当たって7100形(C形テンダー式蒸気機関車)を2台投入している。1854年(嘉永7年)米国ペリー再来日時に持ってきたB形テンダー機関車の模型とよく似た米国式機関車で、後にそれぞれ義経号・弁慶号と命名された。下の図は「鉄道100年のあゆみ」(1972年 日本リーダーズダイジェスト社刊)より転載した。

輸入当時の1号機関車
輸入当時の1号機関車
米国7100形蒸気機関車(通称弁慶号)
米国7100形蒸気機関車(通称弁慶号)

 同時代に取り入れられた二つの機関車、7100形(米国)と1号機関(英国)を比べると、私には7100形のほうが格好良く見えます。煙突やカウキャッチャーの形がいかにも米国の西部らしさを印象付け、模型を作るという観点からすれば、7100形のほうが作り甲斐があると思うのですが、歴史的価値、あるいは導入の背景を鑑みると、双方貴重な遺産であることには違いありません。(7100 形=弁慶号は、1号機関車とともに鉄道博物館に保存展示されています。)

 それでも、日本で最初に走った機関車として、また、日本の工業技術の礎となった1号機関車の存在を末永く記憶し続けなければならないという思いから、「1号機関車(150形)」の原寸モデルを制作することにしました。(詳しくは「制作にあたって」をご覧いただければ幸甚です。)

 

2018年(平成30年) 3月 吉日              島 英雄